現代の都会におけるゴミ屋敷、特にキッチンの崩壊において決定的な役割を果たしているのが、コンビニエンスストアで提供される使い捨ての食事グッズの数々です。かつてのゴミ屋敷が、自炊の過程で出る野菜屑や残飯によって形成されていたのに対し、現代の現場を埋め尽くしているのは、無数のコンビニ弁当の空き容器、カップ麺のカップ、割り箸の袋、そしてレジ袋です。この「コンビニ型ゴミ屋敷」のキッチンは、調理の場としての機能を完全に放棄しており、代わりに「廃棄物の集積所」としての役割を担わされています。住人はキッチンのシンクをゴミ箱として使い始め、それが溢れると今度は調理台の上に、さらには床の上に、地層を積み上げるようにコンビニグッズを捨てていきます。弁当の容器には、数口だけ残された米飯やおかずが、プラスチックの蓋に閉じ込められたまま腐敗しており、これが部屋全体の異臭の主成分となります。また、飲みかけのペットボトルや缶コーヒーも深刻です。これらは内部で発酵が進み、茶色い液体に変質し、時にはキャップが吹き飛んで周囲に汚染を広げます。このコンビニ型ゴミ屋敷の住人の多くは、外の世界では普通の会社員や学生として振る舞っていますが、一歩帰宅すれば、ゴミの山の中でコンビニ弁当を貪り、それを足元に捨てるという、極めて孤独で無機質な「食」を繰り返しています。彼らにとって、キッチンはもはや食事を作る場所ではなく、社会との唯一の接点であるコンビニから持ち込んだ「物」が、その役目を終えて死んでいく場所なのです。私たち清掃員がこのコンビニグッズの山を片付ける際、感じるのは物理的な重さだけではありません。それは、一つひとつの容器に込められた住人の「寂しさ」や「投げやりな気持ち」の重さです。数千個に及ぶプラスチック容器を一つひとつ袋に詰め、中身を処理していく作業は、住人の荒廃した内面を整理していく作業でもあります。キッチンからこれら不毛な食卓の記録が一掃されたとき、そこに現れるのは、驚くほど殺風景で、しかし可能性を秘めたまっさらな空間です。コンビニ弁当という便利さが、皮肉にも人間の生活をこれほどまでに不自由にしてしまうという現実は、現代社会が抱える病理そのものであり、私たちはその歪みを正すために、今日もコンビニの袋がカサカサと鳴るゴミの山に挑み続けます。