その部屋から異臭がし始めたのは、もう半年以上も前のことでした。最初は「何か腐っているのかな」程度に思っていましたが、次第にそれは耐え難い悪臭へと変わり、廊下を歩くたびに鼻を突くようになりました。住人の男性は五十代くらいの方で、昔は挨拶もしてくれましたが、徐々に顔を合わせることもなくなりました。ベランダには古い新聞紙や空き瓶が山積みになり、窓ガラスは内側から茶色い油のようなもので汚れていました。私たちは何度も管理会社に相談しましたが、対応は遅々として進まず、事態は悪化する一方でした。そんなある日、深夜の三時頃に大きな物音がしたんです。窓から外を覗くと、一台のトラックが止まっていて、数人の男たちが大きな荷物を積み込んでいました。当時は「夜中に引越しなんて変わっているな」と思う程度でしたが、翌朝からその部屋の気配がパタリと消えたのです。数日後、管理会社の人が鍵を開けて中に入ったときの騒ぎは今でも忘れられません。廊下まで溢れ出してきたのは、想像を絶するゴミの山と、数え切れないほどのゴキブリでした。どうやらあの夜の物音は、住人が最低限の荷物だけを持って夜逃げした時の音だったようです。彼は自分の生活の残骸を全てそのままにして、私たち近隣住民に悪臭と害虫を押し付けて消えてしまいました。夜逃げという結末は、あまりにも無責任です。しかし、思い返してみれば、彼が夜逃げする予兆はいくつもありました。深夜に何度もコンビニへ行く姿、ボロボロになった服装、そして何より、周囲との関わりを完全に断絶してしまったこと。もし、もっと早くに誰かが彼の異変に気づき、声をかけていれば、あそこまで酷いゴミ屋敷になることも、夜逃げという形で決着をつけることもなかったのではないか。今となっては空き部屋となったその場所を見るたびに、現代の集合住宅における隣人関係の希薄さと、誰にも知られずに壊れていく個人の生活の脆さを感じずにはいられません。